Home > 連載 > TOKYO SPARKLING STORY「バンコク / 恵比寿、3月-2」
TOKYO SPARKLING STORY
煌めく泡が紡いでいくリアルストーリー…映画のようにドラマのように
岩瀬大二 (d's arena)
バブル入社組。酒と女と旅を愛する編集プロダクション代表。世界最高峰の世界遺産はイタリア女だ! とローマの真ん中で叫んだ経験あり。企業SP、WEBサイト、携帯メディアなどでエディター、プランナー、ライターとして活動中。
Vol.6
バンコク / 恵比寿、3月-2
07.6.15 up
最初に口を開いたのは杉崎の妻だった。沈黙の緊迫感に堪えかねたわけではなかった。2人とも八分咲きの桜の樹の下にいるような楽しげな表情。そういえばジャック・セロス ブラン・ド・ブラン。 セレクト自体が、軽やかで優しげだった。
「本当によろしいのでしょうか。なんだか申し訳ない気がしてしまうのですけれど」
彼女より7つ歳上。今年40歳を迎える杉崎の妻は、古めかしい言葉を、ごく自然に使った。清潔、清楚、でも軽やかでモードなベージュのブラウス。
「たぶんセリーヌ。美紗子さんには良く似合う」
と彼女。この人といると、なんだか心地よい。このシャンパーニュと同じだ…。
「そんなー。本当に気にしないでください。というか、まさか私の、こんな経験がお役に立つなんて、思ってもいませんでしたから、とっても喜んでます、はい」
美紗子の前では、どういうわけか彼女は大学の部活の後輩キャラになってしまう。彼女2年生、美紗子4年生。自分もそこそこ場馴れしてきたけれど、大人の女性を前にすると、言葉遣いがぎこちなくなって、1オクターブとはいわないけれど多少高くなる。そんな「2年生」。美紗子は、眩しい憧れの「4年生」。再び彼女の心の声。
「しかも筋金入りのお嬢様だし」
筋金入り、と、お嬢様。言葉のギャップにも気がつかないぐらい、美紗子の前では自分らしさを失ってしまう。いや、むしろそれこそが素の彼女なのだ。彼女はそれには気づいている。

美紗子がオリーブを、美しい所作でつまみ微笑む。
「申し訳ありません。私たちの我侭にお付き合いいただいて。ご負担もかけてしまいますよね。お時間も、それから…会社での立場でも」
眉間に皺を寄せた、その皺まで可愛らしい。会社での立場。確かに、この協力は、会社という大きな組織やそこで培われてきた社風というものからすれば、彼女は、不利な立場、好奇な視線の渦の中に置かれる可能性が高い。その可能性98%。のこりの2%は、杉崎と彼女の行動を支持する人々の応援。その力強い応援が風向きを変えるかもしれない。風向きが変わることを期待しているわけではない。不利な立場も好奇な視線もかまわない。ただ、今回の「懇願」を受けて行動する彼女と杉崎を支持する人々が確実に会社にいることに、彼女はうれしさを感じていた。頼れる参謀、親友の香織もいる。どこまで戦力になるかはわからないが、忘年会、新宿で香織にうまく使われたルーキーも、社食で万年筆の会話をした新卒、今は主任としてバリバリがんばるあいつも、「杉崎派」だ。表立って活動しているのは彼女だけだが、それもあえての作戦。それぞれの役割や立場で、杉崎の情熱を支えようと誓い合っているのだ。杉崎と美紗子の我侭ではない。もはやこの行動は、
「つまらない」
と普段の自分を貶めていた彼女にとっては、人生の大きなやりがいとなった。それは、実は、心のどこかで自分たちもつまらない人間だと刷り込んでいた、「ルーキー」にとっても、「主任」にとっても大きな挑戦だった。

2時間の「作戦会議」を終え、美紗子は愛娘の待つ自由が丘の家に帰っていった。杉崎は家にはいない。
「今日は、きっと、杉崎にとっても大切な日だと思います。でも、大丈夫でしょう。ああ見えて…心臓に毛が生えてますから。お2人ぐらいに分けてさしあげたいぐらい」
立ち去り際に微笑みながらサラリといった美紗子。美紗子を見る心地よさ。
心地よさを邪魔するわけでもなく、スッとシャンパンバーのマスターの声が耳に触れる。
「次は何にしましょうか?今、アヤラのブラン・ド・ブランがあいてますよ」
なんて幸せなタイミング。今夜はこのまま、ふわふわの気分でいたい。瞳を閉じた彼女は、シャンパンバーの中で、ひとりだけ柔らかな幸せのオーラの中に包まれていた。
バンコクは対決の場だった。
一時代前の歌謡曲のようなメロディをチープなキーボードがガイドし、低音が腹の底を揺り動かすトランスとユーロを不器用に折衷したようなリズム。暗闇を切り裂く青、赤、緑、黄、極彩色が激しく点滅し目の奥まで刺激を届け、甘すぎるココナッツとスコッチウィスキーとビールのビターな匂い、湿気と熱気と埃とが身体にまとわりつく。誰かとぶつからずには前へ進めないすし詰め状態の店内。梅雨時の夕方、ラッシュアワーの池袋駅改札前。杉崎は、客たちの間にできた隙間に腕をねじ込みながら、自分の陳腐なヴィジョンに可笑しくなった。

ようやく、店の奥のひな壇の前に漕ぎ着けた。少しだけ酸素を感じることができた。ひな壇を埋め尽くすのは、照明の極彩色をそのままデザインしたような、水着と下着の見極めがつかない際どい衣装をきた女たち。曲にあわせて、踊るというよりは身体をけだるそうに揺り動かしている。ぎらぎらした欲望の目と、逆に虚脱感に支配された生気のない目を持つ男たちの間をさらに縫い、ひな壇上からの誘いの言葉をただの雑音、喧騒として処理しながら、杉崎は店の奥に進む。そこにあの人物は間違いなくいるだろう。ひな壇を周りこんで左奥。店の入口は対角線。つまりこのいかがわしい店の最深部が、昔からの彼の定位置。

見えた。そこに男は、いた。
昔はカンカン帽と教えられたが、実際は別物のパナマ帽。定番のクリーム色だが微妙な黄みの入り方が一級品の風情を醸しだす。オーダー先はナポリ。なぜナポリ?という疑問はあったが、これもこの男らしいこだわりなのだろうと杉崎は半ばあきれ気味に理解していた。セオドア・ルーズベルト、ポール・ニューマン、ヘミングウェイ、そしてウィンストン・チャーチル。ダンディのマストアイテム。その男は昔、得意そうに杉崎に語っていた。プライベートの時間には必ずこれを目深に被り、そしてシャンパーニュ。これが男の変わらぬスタイル。

「よう、早かったな」
極彩色の水着の女2人に両の手を回した、絵に描いたようなはべらせ方。パナマ帽にあわせたクリーム色の、鮮やかだがどこか微妙に渋みがかったサマージャケットの上下にピンクのシャツ。ボタンは2つあけ。立っても座っても160cmの身長は、そうは変わらない。身長は低いが日本人離れした足の長さと、しなやかな細身が、むしろ長身の男たちよりも格好を良く見せている。ビーチリゾートを渡り歩いてきた本物の日焼けが…42歳を迎える杉崎よりも6つ上の年輪を刻んだ肌に、男の色気を与えている。杉崎に向けた笑顔。しかし眼光は鋭い。

「座れよ。お前も飲むだろ?」
有無を言わせない言い方は相変わらずだ。ゴツイリングを小指にはめた右手で、クーラーからガシャガシャと氷の音を立てながらシャンパーニュ・ボトルを引き抜く。ポール・ロジェのサー・ウィンストン・チャーチル 1988年。ピノ・ノワールを軸としながらも男性的なボディよりもむしろ、シャルドネのやわらかさとピノ・ノワールの別の顔、すなわちフルーティーなエレガントさを感じるシャンパーニュ。どうもこのいかがわしい場所には不釣合いな気が、杉崎はしたが、男には男の理屈があった。乱暴に見える手つきでグラスに注ぐと、男は、ふふっと笑い声をもらし、杉崎に言った。

「こういう地獄だか天国だかわかんねえような場所には、男の見栄と可愛さが同居した泡がいいんだ。チャーチルもたぶん、そういう男だったんだろうな」
本当にそうかはもちろんわからないが、この男の決め付け方のユニークさは杉崎も、おもしろいと感じるところもあった。だが、今は昔を惜しむ気もないし、できれば早く結論を出したかった。

「早く本題に入りたい」
杉崎は、自分がリラックスしているという実感をもった。思いつめた表情でもない。自然体だ。男はパナマ帽を右手で一度目深に被り、少しの間、その奥で目を閉じた。今度はつばを右手人差し指で大げさにグイっとあげて、右の口角をグッとあげて無言で笑う。アゴで両手にいた女を、追い払う。まるで陳腐な西部劇だ、杉崎は可笑しくなった。あいかわらず大げさだ。変わっていない。子どもの頃から。笑いの中に昔を思い出していることを男は感じ取った。ニヤリと笑う。そして目を細めて杉崎に言った。
「じゃあ、早く本題とやらを言えよ、弟クン」
SH
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