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RUNNING STORY AT CHAMPAGNE 聖地を巡る
華やかさの理由と真髄を探るべく、シュワリスタ、シャンパーニュ地方へ
岩瀬大二(d's arena)
バブル入社組。酒と女と旅を愛する編集プロダクション代表。世界最高峰の世界遺産はイタリア女だ! とローマのど真ん中で叫んだ経験あり。企業SP、WEBサイト、携帯メディアなどでエディター、プランナー、ライターとして活動中。
photo: NORICO
Vol.5
心優しき石畳の村
08.10.20 up

僕らのベースキャンプはアイ村におかれていた。ランスには国際級ホテルがいくつもある。エペルネには上品で優美なホテルがある。でも、アイ村には、そんなホテルなどない。村の中心部をはじからはじまで歩いても、都内の中学の狭い校庭を歩くほどしかないおとぎ話のような村には無用なのだろう。シャンパーニュの中でもピノ・ノワールの聖地として世界的に知られ、代表的なメゾンがひしめく。そんなイメージからは想像もつかないような田舎の風景だ。

でも、その分、ここには温かい空気が漂っている。2月の雨は冷たいはずなのに、2月の陽光は弱々しいはずなのに、体の芯が冷えることはない。村は静かだ。子供の嬌声もそれほど聞こえない。耳の奥までしみ込んだ都会のノイズから久々に解放される。教会の鐘の音、白鳥が優雅に身を浮かべる緑の河のせせらぎ…心の周りをふかふかの真綿が包んでくれているような妙な感覚…。

アイ村の中で一番高い建物は中心部にある教会。厳かというよりは優しげな音色に聞こえる鐘の音。中世そのままの趣を残している。

8日間、僕が身を預けたのはアイ村の中心部から丘を少し上がった石畳の小路にあるプチホテルだった。隣にはドゥーツがこじんまりと門を開け、もう少し丘を上がればボランジェがある、そんなロケーション。昔の洋館を改造したのだろう、部屋毎にインテリアが全く違う。女性的な温かさと優しさが部屋の隅々まで行き届いている。部屋はもちろん、スタッフの女性たちのもてなしも自然。まるで「我が家に招かれた」ような心地良さ。

アイ村という東京とは何もかもが違うおとぎの場所まで、容赦なく仕事は追いかけてくる。27時にベッドに入り29時30分、つまり4時30分には起きて無線がつながる薄暗いロビーに降りてメールを処理する。8時過ぎにはメゾン訪問のために部屋を出る。それが日課。時間がゆっくり流れるこの場所で時間と戦う不条理。7時になると早番の女性スタッフが扉を開ける。「どうしてそのハードワークはやめられないのかしら」そんな表情で7時20分、僕のテーブルにクロワッサンとミルクたっぷりのコーヒーをそっと置いてくれる。泣きそうな体にしみわたる幸せ。

プチホテルの小さなエントランスを出て、石畳の小道を左へ。右手に教会の先端を見 ながらドゥーツを過ぎてすぐにアンリ・グートルブの看板が見える。華美な装飾のないシンプルなたたずまい。

滞在もあと2日。この日のアポイントメントは午後遅めからランスで。久々にゆったりできる朝を、すっかり定位置となったロビー入口脇のソファで過ごす。時間との戦いだったメールの処理ではなく、mixiでのたわいもない友人とのやりとり。石畳に消されるほどの弱い雨が、何もない時間を「それでいいんだよ」と囁いてくれる。そこにこのホテルのオーナーであるマダムがやってきた。いつもは心配のまなざしを向けてくるマダムが今日はなんとも明るい表情で声をかけてきた。

「今日はどんな予定?」

午前中は特に予定がないんです、と答えると、その明るい表情にさらに光がさす。

「それなら私のメゾンに遊びに来たら? ここから歩いて3分の所なの」

私のメゾン? そう、今の今まで、不覚にもこのホテルを経営しているのがシャンパーニュ・メゾンであることを僕は知らなかった。

マダムの名前は二コール。マダムのメゾンは『アンリ・グートルブ』という。マダムはこのグートルブ家の現・当主レネさんに嫁いだ。もともとぶどう農家向けに苗木を育て販売していたグートルブ家。自然の恵み、苗木づくりのプロフェッショナルとしてシャンパーニュ造りに取り組むレネさんとホテル経営者としてアイ村でゲストをもてなす二コールさん。家族経営という言葉がしっかりはまるメゾンだ。

上: 筆者、アイ村で日曜日に空いている数少ないレストランにて。「ツンデレ」風(笑)おばあさまが切り盛り。アルザスにも似た素朴なアイ村料理が心にしみる。手前の豚のテリーヌの件が村中に知れ渡り…
下: プチホテルのラウンジ。写真手前の奥に筆者の指定席が。

マダムの好意に甘えてメンバーたちと小雨の中、石畳を歩く。質実剛健といったところだろうか、しゃれた洋館ではなく日本の清酒工場のような雰囲気の佇まい。おばさまと若い女性2人が事務机にかじりついてなにやら発送の準備や経理処理をしている。声をかけるとマダムからの話は聞いていたらしく、カーヴへと案内してくれる。大手メゾンのカーヴを見慣れたこの滞在の中ではかなり規模の小さいカーヴではあるが、その分、大切に大切に育てられているような温かさを感じるから不思議なものだ。

カーヴを見学させていただいた後、「二コールがお待ちしていますので」ということで、これも飾り気のないゲストハウスへ。この雰囲気はむしろ好ましく感じる。一度だけ飲んだことのあるグートルブの飾り気のない風味が蘇ってくる。案内嬢がグートルブのラインアップのいくつかとグラスを用意してくれた。静かな部屋の中で、グートルブの定番であるキュヴェ・トラディションを注ぐ音が静かに広がる。音まで香ばしい。

アンリ・グートルブの地下セラー。実用を重んじたシンプルなつくり、という印象。

そこにレネさんと少し遅れて二コールがやってくる。屈託のない笑顔でストレンジャーを迎え入れてくれる。グートルブの歴史をガイドするビデオを見ながら、楽しそうに解説…いやおしゃべりに花が咲く。こんな時間に、飾り気のないキュヴェ・トラディションの風味は最適だ。レネさんのおしゃべりは次第に僕らへの質問に変わる。「シャンパーニュはどうだ? 日本ではなにが人気? アイ村はどうだ? なにかおいしいものは食べたか?」

質問攻めの中で99年ミレジムをサーブしてくれる。そしてつまみには豚の血のソーセージなど本当に家庭的な料理が並ぶ。豚の血のソーセージは確かにきつい味だ。でも、93年のミレジムが、あまりにもハマりすぎる。日本の田舎に出かけて、おばあちゃんのつけてくれた香の物や山菜の煮付けをいただくあの感覚。旅っていいなあ、改めてそんな想いがこみ上げてくる。アイ村でおいしいもの、その質問に答える。

「一昨日の日曜日、一軒だけあいている小さなレストラン…おばあちゃんがやっている店で食事をしたんです。豚のテリーヌが最高においしくてたくさん食べてしまいました」

僕の話に目を倍に広げてレネさんは声をあげて笑った。

「おーー、話は知ってるよ。テリーヌをやたらに食べた日本人が来たって。そうか、君のことなのか」

この日テイスティングしたアンリ・グートルブのラインナップ。いずれも農産物であることを心の底から感じさせてくれる芯のしっかりしたテイスト。手前のグートルブ家手作りおつまみは日本では味わえない滋味。一番手前が豚の血のソーセージ。

軽くウィンクをすると、レネさんは、82年、貴重なオールドヴィンテージに手をつけた。僕らは、そんな貴重なものを! と身を乗り出して遠慮を申し出ようとするが、その前にもうレネさんはコルクを抜いていた。

「田舎の村で初めてあう連中と愉快に飲める、こんな楽しいことはないじゃないか」

レネさんの顔に浮かぶのはそんな想い。ふとマダムを見ると

「あ、今日はそれ飲めるのね、楽しみ」

という笑顔で空のグラスを構えている。

なんとも素晴らしい時間。

東京にいて想うアイ村と、実際に懐に飛び込んでみるアイ村。そのギャップはあまりにも楽しいものだった。愛と優しさ。厳しくシャンパーニュ造りに取り組む彼らの心はどこまでも愉快で温かいものなのだ。

正直にいえばそろそろ体力的にもきつさを感じていたシャンパーニュでの6日目。この日、アンリ・グートルブというメゾン、いやハウスを訪れて、まだこの地にいたい、という感情が湧きあがってきた。残された2日、ここで何を感じることができるのだろうか…。まだ、帰りたくない。幸せな午前は、その5分後には、どこか物悲しい想いに変わっていた。門を出ると、雨はすっかりあがり、次のスケジュールに急き立てられるように、僕は足を速めた。

レネさん、二コールさんとメンバーたち。がんこなこだわりを笑顔でやわらかく語りかけるレネさん。メンバーも自然に笑顔になる。

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