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Meets the New Style of PRESTIGE 歴史が生む冒険、冒険が創る歴史 モエ・エ・シャンドンの新たなる輝き 『グラン ヴィンテージ 2000』の世界
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History

時代の先駆者だけが生み出せること 歴史のページから見える輝きの理由

パリより北東に約140km、シャンパーニュに彩られた街・エペルネ。1743年、モエ・エ・シャンドンは、この地でクロード・モエによって創業されました。歴史のページをめくっていきましょう。

クロード・モエを幹にして広がっていくモエ・エ・シャンドンのファミリー・ツリー。地下セラー入口で見られます。

情熱が生み出した 革新と礎の創成期

1700年頃、泡立ち華やかなシャンパーニュは、ヨーロッパ中の王族、貴族を魅了し、その人気を広めていました。しかし、安定して供給することは難しく、誰もが専業としてシャンパーニュ・メゾンを経営することのリスクを恐れていました。その中でクロード・モエは、周囲からは冷ややかな視線の中シャンパーニュを経営の柱にすることを高らかに宣言。シャンパーニュというお酒にとって、これは歴史上の大きな転換点でした。

2代目 クロード・ルイ・ニコラ・モエの時代、ルイ15世を魅了したポンパドゥール夫人がこのシャンパーニュを愛しました。パリの北、後にルイ16世とマリー・アントワネットのドラマの舞台ともなるコンピエーニュ城にて愉しむために、毎年5月、200本のシャンパーニュを夫人がオーダーしていたという逸話が残されています。

3代目 ジャン=レミー・モエは、皇帝ナポレオンとも親交が深く、皇帝は幾度と エペルネを訪れ、戦利品をジャン=レミーのもとに届けていました。皇帝がその座を降りた後、戦後補償の一環でシャンパーニュは搾取の対象となり、ジャン=レミーはその最大の被害者となりました。

王室、著名人など時代のビッグネームが並ぶ創業時期の来訪者リスト。

そして世界中に広がる情熱

館に宿営したロシア兵たちが飲み尽くす…。しかし彼は悠然とこう言ったといいます。「今日、私を破滅に追い込んでいるこの兵士たちが、明日の私の富を作ってくれる。私のシャンパーニュの美味しさを知った彼らは、国へ帰り私の会社の名を広めてくれるはずだ」。彼の予言は的中しました。欧州中に彼のシャンパーニュは広がり、今、世界中を魅了しているのですから。

ジャン=レミー・モエは男の子に恵まれなかったこともあり、後に娘婿のガブリエル・シャンドンがメゾンを継ぐことになりました。ここに「モエ・エ・シャンドン」という、今も引き継がれる社名が生まれました。そこからの歴史は、シャンパーニュの歴史を変革していく歴史。そして不思議なことに…その革新こそ「次代」のスタンダードとなり、結果、シャンパーニュの歴史の王道となっていくのです。それはこの3代の革新者、魂の継承と言えるのでしょう。

地上とは空気がガラリと変わる地下セラー入口。ステンドグラスには当時のワイン作りの光景が描かれています。

壮大で荘厳なゆりかごから生まれた輝き

歴史のページを閉じて、「現在」のページを開きましょう。

『グラン ヴィンテージ』も、この歴史、この場所から生まれました。9600万本を収蔵し、全長28kmにも及ぶモエ・エ・シャンドンの地下セラーには一般の見学では見ることのできない、特別の場所があります。神々しさに圧倒されながら足を踏み入れると、そこには1892年から2000年まで、100年以上にわたる中から選ばれた歴史的ヴィンテージが貯蔵されています。

ここに新しい歴史が加わります。モエ・エ・シャンドンの歴史があればこそ、新しい輝きはより強烈に放たれるのです。

上 : 皇帝ナポレオンの来訪を記した地下セラーのレリーフ。

Next TASTING 「その味、世界観を知る、感じる。」

History
歴史のページから見える輝きの理由
Tasting
気品と悪戯心が愛し合う素晴らしき世界
Mariage
『グラン ヴィンテージ 2000』至福のマリアージュ

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